とある著名で老練な、科学者の話。
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科学者「私は長年宇宙についての研究を続けてきたが、すべて一度やめて星座の勉強をしようと思っている。」
「なぜですか?というよりも、星座というのは宇宙という分野の中でもごくごく入り口にあたる学問ではないのですか?」
科学者「いや、私が長年続けてきた研究と星座というのは、大きく異なる。私は、銀河系を中心とした宇宙に存在する星を座標軸で捉え、数値で正確に表現することができる。どこで新しい星が命の息吹を吹いたのか、そして息絶えたのかを知っている。それが仕事だからだ。」
科学者「しかし星座は違う。地球の地表から空を平面で捉え、等星のまったく異なる星が家族のように手を取り合って輪郭を描くさまを古代の勇者やモンスターになぞらえる。」
科学者「私は50年近く、真理を求めてきた。幼いころに感じた空への憧れに手を伸ばして、様々なものを掴んだ。いつのまにか、私よりも正確な知識を持つ人間は、いなくなってしまった。」
科学者「…しかしな。」
「…しかし、なんですか?」
科学者「宇宙を正確に知れば知るほど、数値としての星の座標が私を宇宙から引き離すんだ。あんなにあったはずの宇宙への情熱は、とうに冷めてしまった。」
科学者「星座は、科学的には正しくないのかもしれない。等星も座標も異なる星を同列に扱うなんて、私が追い求めた正しい宇宙の姿からは離れてしまうのかもしれない。けれども、幼いころに感じた空への情熱は、無機質な数字の羅列へのものではなかったかもしれないんだ。」
(SAPIX 開成特訓プリントより抜粋 *一部改訂)
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上の文章は、塾で生徒が持ってきたプリントにあったものの引用です。フィクションらしく(プリントをなくしたので記憶を頼りに再現したため一部正しくない可能性がありますが)、幼いころから空を見るのが好きだった著者が念願叶って研究者として成功するのですが、正しさを求めれば求めるほど昔のような情熱を感じることができなくなり、星座の勉強を始めるというものです。
この文章を読んだときに感じたのは、何でも偏差値とか得点とかで測れて、奇妙な納得感を与えてくれる現代社会の風潮が、幸せを遠ざけてるんじゃないかなーってことでした。
自分の目とか耳とか、実感として感じたものをそのまま信じることすら容易でなくなってる。例えば、自分の手に入れたものの客観的な評価や値段を知らないと不安になったり。自分が納得できるならそれでいいじゃない!って、大きな声で言えなくなってる(もしくは開き直りに聞こえてしまう)。
でも多分、幸せの基準を他人の中に置く限りはそれを安定して満たし続けることって容易じゃない。さながら回し車の中を終わりなく駆け回るハムスターのような人生になりかねないし。
だから、どんな風に人生を見るのか、測るのかっていう基準を自分の中に明確に持つことがそのまま幸せに繋がるんでしょうね。「現代社会に生きてると、求めてもないのにいろんな基準であなたが輪切りにした階層のどの部分にいるのかを定義してくるものが現れるけど、それを鵜呑みにしても何も保障されるわけじゃないし、むしろ大事なものを見失うかもよ」ってことが言いたいんでしょう。
まわりの評価に振り回されずに、自分の見たい見方で人生を見つめるって簡単なようでいて…。